餓鬼

本日(8月6日)、年中行事である「施餓鬼会(せがきえ)」を、厳修いたしました。

本年も、万杯のお堂に、感謝申し上げる次第です。

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お釈迦さまの弟子のひとり、「阿難(あなん)尊者」が、瞑想していた時・・・

「焔口餓鬼(えんくがき)」という鬼が現れ、阿難に言い放ちます。

 

「お前の命はあと“3日”で、その後は餓鬼界に生まれ変わるだろう」と。

 

驚いた阿難尊者が、お釈迦さまに相談すると・・・

「餓鬼界の“困苦の者”(ひいてはあらゆる者)に対して“飲食”を施し、供養しなさい」と。

 

阿難尊者がその通りにすると、3日後に命を亡くすことはなく・・・

さらには、お釈迦さまの弟子の中で、一番の“長生き”をしたといいます。

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・・・これが、施餓鬼のいわゆる“由来”。

では、そもそも「餓鬼」はなぜ、餓え苦しんでいるのでしょうか。

 

本当に餓えている人や、食べたくても食べることが出来ない人のことを・・・

我々は、「餓鬼」とは呼びません。

 

現代の世の中において、我々は物を粗末にし・・・

あれもこれもと、次から次へと欲しがるという、「限りない行い」を繰り返しています。

 

きっと死後も、また同じことを繰り返すのでしょうし・・・

そういう者達を、「餓鬼」と呼ぶのはないでしょうか。

 

ならば、(餓鬼を救うための)「施餓鬼会」は・・・

単純な“飲食”を供えれば良い、というものではありません。

 

“飲食”とは、物質的なものではなく・・・

見返りを求めない、思いやりの“心”のこと。

 

それが、「餓鬼」に伝わったなら。

つまり「なぜ自分が、飢え苦しんでいるのか」に、気付いた時・・・

「餓鬼」は、本当に救われるのでしょう。

31 盂蘭盆施餓鬼会

訳が分からないまま法要に参列し、意味不明に法要が終わる。

終了後の法話で、理解・納得するも・・・来年には忘れている。

 

・・・これでは(私も)面白くありませんので。

宗勝寺では、法要前に趣旨のご説明をさせていただいております。

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・・・事有る毎に言っていますが、行事は「準備8割、片付け2割。。。」

今年も後半戦、ひとつひとつを(何とか)終えていることに、心底安堵しておりますが。

 

明日からは、半月間の無酸素運動・・・

本格的に、“お盆のお経廻り”を開始させていただきます。

 

毎年、「いつまで、この過酷な肉体労働を続けられるんだろう」と、憂鬱になりますが・・・

今年も目標は(例年と同じく)、「ゲ●を吐かない」こと。

 

該当檀信徒の皆さま、よろしくお願いいたします。。。

 

【追伸】

前回のブログ「てらこや」の、最終まとめとして、今年も作成させていただきました!


(スマホ・タブレット端末の方は、PCモードにてご覧ください。。。)

 

初午

昨日(3月31日)は、「初午(はつうま)」の日でした。

(平成27年の旧暦初午のことです。。。)

 

宗勝寺がある、千葉県香取市(佐原地区)は・・・

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画像のように、(利根川系)水運を利用して栄えた、商業の町。

 

古くからある町内で、それぞれに“お稲荷さん”を勧請したのは・・・

その時代の、“商人”を中心としてのことだったのかもしれません。

 

生まれた時から、この地に住んでいたとしても・・・

「お稲荷さん?どこに??」

・・・と仰る方も、いらっしゃるかもしれません。

 

年に一度、「(稲荷大明神のご縁日)初午」の日だけは・・・

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いたるところに、このような(5M程でしょうか)“のぼり”が立てられます。

 

私は毎年、「南横宿区」さまのご依頼で、“ご祈祷”させていただいておりますが。

やはり、こちらも・・・

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人がすれ違うことができないような、路地を抜けたところに。

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こちらの「笹+旗」は、参詣者が持ち帰るそうで・・・

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こちらの小さい“お宮”は、各家が次の「初午」まで預かるそうな。

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町内各家が、“ローテーション”でお祀りするシステムですね。

 

一昔前は、路地から人がはみ出るほど、“行列”ができたとか・・・

子どもたちが、一日がかりで「笹+旗」を集めて回ったとか。

(その際、お菓子や甘酒をもらいながら。。。)

 

残念ながら、現在はそのような隆盛は見受けられませんが・・・

それでも、脈々と信仰が伝えられています。

 

さて。

 

こちらは、師匠のお寺「浄国寺」境内(参道脇)の、“お稲荷さん”。

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町内(寺宿区)の有志が、日蓮宗の本山「日本寺(千葉県香取郡多古町)」さまの・・・

“豊田岡田稲荷大明神”を、分祀していただく形で、こちらに勧請。

つまり、(要請により)寺の境内地を貸借した訳です。

 

ところが、時代は流れ。

 

町内の方の口からは・・・

「なんで、ここだけは俺らが掃除しなきゃいけないの??」と。

(もちろん、“所有/管理”は、町内の方々になる訳ですが。。。)

 

話し合いの末、境内地が・・・

(上物をそのままに)寺に返却されたのが、“平成22年”のこと。

 

管理する権利を譲渡され、お宮の扉を開いた時・・・

その中身は、“空っぽ”でした。

(どのような経緯があったかは、知る由もありませんが。。。)

 

そして、この度・・・

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無事に、“改修”が完工。

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コンパクトになった祠は、実はまだ“空っぽ”のままですが・・・

ここ数か月のうちに、まず“再勧請”を。

 

来年の「初午」には、“稲荷大明神大祭”を復活する予定です。

あかんたれ

本日(3月18日)は「(春)彼岸」の、“入り”の日。

 

「春分/秋分」を中日とし、その前後3日間を合わせた・・・

合計7日間の期間のことを、「彼岸(ひがん)」といいます。

 

「彼岸」を読み下せば、「彼(か)の岸 = 向こう岸」と。

その“向こう岸”には、「迷いの無い世界」があるとされ・・・

言ってみれば、それが仏教でいうところの“悟り”ということになるのでしょう。

 

“向こう岸”があれば、“こちら岸”もある訳で。

「彼岸」に相対し、“迷い・苦しみ”にまみれた「此岸(しがん)」という世界が・・・

私たちがいる、この世界だということ。

 

つまり、「此岸/彼岸」の間には・・・

“煩悩(迷い)の川”が、流れているという考えになります。

 

仏教徒の“最終目標”は、「成仏(仏に成る)」すること。

それは、“悟り”を開くことであり、言い換えれば“煩悩(迷い)の川”を渡り・・・

「彼岸」に、行くことなのです。

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上記の話に、一切興味を持つことができなかった、あなた。

それは、至極当然のことかもしれません。

 

「仏に成る、成らない」なんて聞いたら・・・

「あ、私には関係ない話だ。。。」と。

 

あなたは、“結果”が遙か遙か彼方にあるものに、尽力できますか??

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(完全に個人的意見ですが)私は、“結果”がすべてだと思っています。

「過程が大事だ」なんて、言い訳に過ぎないとも思っています。

 

ただ、結果が“ダメ”と分かっていたとしても、“成功”に向けて尽力したなら・・・

その過程こそ、“結果”なのかもしれません。

むしろ、過程の無いものに“結果”なんて有り得ない訳ですから。

 

にも、似たようなこと書きましたが・・・

人生何事も、やらなきゃ“損”ですよ。

 

・・・と、いう訳で。

 

「彼岸」に近づくためには、“六波羅蜜(ろくはらみつ)”なる修行をせよ、と。

①「布施(ふせ)」は、分け与えること。

②「持戒(じかい)」は、戒律(ルール)を守ること。

③「忍辱(にんにく)」は、耐え忍ぶこと。

④「精進(しょうじん)」は、最善を尽くすこと。

⑤「禅定(ぜんじょう)」は、心を集中・安定させること。

⑥「智慧(ちえ)」は、真実の認識力を得ること。

 

一般的には、「彼岸」の7日間には“六波羅蜜”をひとつずつ実践し・・・

「中日には、ご先祖さまの供養を。。。」なんて、言われています。

 

また、あくまでも“六波羅蜜”は、常に実践し続けなければならないもので・・・

「彼岸」は、その“強化週間”と言ったようなもの。

 

そんな“強化週間”を、設定しなければならないほど・・・

私たちは、「あかんたれ」ということでしょうか。。。

鈴と鰐口

・・・・・・前回のつづきです。

 

お賽銭を投げる前に、「ジャラジャラ」ってやりますよね。

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単純に、「鈴(すず)」といいます。

 

宗勝寺の「鬼子母神堂」には、「鈴」ではなく・・・

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こちらは、「鰐口(わにぐち)」といいます。

 

まぁ、「どっちがどっち」という明確な決まりは、実際ございませんが・・・

「鈴」があるのは、概ね“神社”。

「鰐口」があるのは、概ね“お寺”。

 

・・・では、“何のため”のものか、と言えば。

 

まず、「神仏への“参拝合図”」として。

“インターホン”的扱いですね。

 

また、「神仏へ、音色を“供養(お供え)”するもの」として。

いわゆる“鳴り物”の仏具には、こういった意味合いのものが多数ございます。

 

さらに、その音自体に「魔障を祓う」という意味もありますが・・・

いずれにせよ、「鈴」も「鰐口」も、その“意味合い”としては同じ。

 

さて。

 

前回のブログを、ご覧いただいて・・・

「結局、“賽銭・浄財”はいくら入れたら良いんだよ。。。」って方。

 

それが、この「鈴と鰐口」に示されているのです。

 

一説によれば、「鈴」は“男”を表し・・・

「鰐口」は、“女”を表していると言われています。

 

上記画像を見て、「ピン」と来た方は、それが・・・

「男性/女性」を象徴とするような、“体の一部分”を指すということが、お分かりかと思います。

 

そして、色で言えば・・・

「男」は、“白”。

「女」は、“赤”。

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これも、勘の鋭い方は、“生殖機能の象徴色”と言えば、お分かりかと。

 

以上を、踏まえますと・・・

「神社 - 鈴 - 男 - 白」

「寺 - 鰐口 - 女 - 赤」

 

ここからは、うまく説明できませんが・・・

同じ“属性”というか、そういったニュアンスのものの方が、より“良い”と。

 

結論を言えば。

 

「“神社”にお参りの際には、“白いお金”」を。

“白いお金”っていうのは・・・

「1円硬貨・50円硬貨・100円硬貨・500円硬貨・千円札」のこと。

 

「“お寺”にお参りの際には、“赤いお金”」を。

“赤いお金”っていうのは・・・

「5円硬貨・10円硬貨・5千円札・1万円札」のこと。

 

上記、「覚えられねぇよ」って方は・・・

「お寺には、一万円」と、覚えてください(-。-)y-゜゜゜

賽銭

同じ物事を行うにしても、何も考えずに漠然とした“慣習”だけで、それを行うのか。

それとも、“理解”を深めた上で行うのか。

 

あなたは、どちらを選びますか?

 

・・・もうすぐ、今年も終わってしまいますね。

新しい年を迎えれば、多くの皆さまが、“初詣”にお出かけになることでしょう。

 

「あ、初詣の“作法”について書くんだろ。。。」

・・・と思った方は、残念でした。

 

今回は、「お賽銭(さいせん)」の話です。

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ある調査によれば、「賽銭(初詣)」の全国平均額は、“414円”だそうな。

これを、多いと見るか、少ないと見るか。

 

「どうしても叶えたいお願いがあるから、お賽銭を“奮発”して。。。」

「ご縁がありますように、“5円”を。。。」

「“15円”で、十分ご縁が。。。」

・・・はい、どれも“間違い”です。

 

お賽銭の「賽」という字には、「むくいまつる」という意味があります。

つまり、神仏から福を受けたことに対し、感謝してお祭りすること。

また、「お礼参り」という意味もあります。

 

ですから、「賽銭」は「願いを叶えてもらうため」のものではなく・・・

「願いが叶った(叶う過程に至った)事に対する、“お礼”」なのです。

 

まず、これだけは理解していただきたいのですが・・・

「お願い/お礼」

・・・これは、“セット”です。

 

「お賽銭=お礼」によって、今までの願い事を“チャラ(?)”にしてから・・・

次の“お願い”をする、という順序が大切な訳です。

 

別の言い方をすれば。

頼んだことに“お礼”も言わず、重ねて次の“お願い”をするようなヤツは・・・

絶対に、願い事なんか叶いません。

 

さて。

 

上記画像は、宗勝寺の“賽銭箱”です。

いや、厳密に言えば“賽銭箱”ではありません。

 

「奉納」と書いてあるのが、お分かりでしょうか。

「浄財」と書いてあるものがあれば、同じ意味です。

 

ここに入れるのは、「賽銭」ではなく「布施(ふせ)」です。

「布施」とは、財物などを施すことで功徳を積むという、仏教における“修行”のこと。

 

また、“お金”というものは、良くも悪くも・・・

「人それぞれの“感情”が入りやすい」と、言われています。

 

自分の“境遇”が、「良くない」と感じる方は・・・

(ある意味)“厄払い”のつもりで、入れるのも良いでしょう。

 

それに乗せられた“(いわゆる)厄”は、当然その“お寺”に行く訳ですが・・・

ご存知の通り、お寺では毎日の“勤行(読経)”が、行われます。

 

つまり、それで“浄化”されるということ。

「浄財」の“浄”という字には、そんな意味もあるのです。

 

全国の、“賽銭泥棒”さん。

あなたが盗ってるのは、“厄”がたっぷり乗ったお金かもしれませんよ。

 

・・・・・・つづく

南無

・・・・・・昨日のつづきです。

 

「日蓮宗っちゅーと、ナムミョーホーレンゲキョーだべ?」

「うちは、ナムアミダブツだから」

・・・なんて会話が、日本仏教の“宗派”というものを、良く表していると思います。

 

この会話の“ポイント”は、「ナム = 南無」という共通項にあります。

これは、(インドの古い言葉)サンスクリット語の「ナマス(namas)・ナーモ(namo)の“音写”。

 

“音写(おんしゃ)”とは、翻訳に際しその発音自体に文字を当てはめたもの。

ですから、“南 / 無”という文字自体に、意味はございません。

 

「南無」とは、「(命がけで)信じます・敬います」という意味。

それぞれの“宗派”が、何を大切に考えているかが・・・

「南無」以下の言葉で、一目瞭然となる訳です。

 

ですから、「南無阿弥陀仏」と言えば、「“阿弥陀仏”という仏さまを、信じ敬います」と。

我が日蓮宗は、“妙法蓮華経”の教えを、「南無」している訳です。

 

“妙法蓮華経”というお経は、「仏さまの真実かつ最高の教えだ」ということで・・・

「諸経の王」と呼ばれ、また“世界シェアNo.1”のお経でもあります。

 

“妙法蓮華経”の一字一句には、お釈迦さまの悟りの功徳が具わっており・・・

「南無妙法蓮華経」とお唱えすれば、自然にその功徳をいただける、と考えられています。

 

・・・私たちは普段、都合の良いことばかり、行います。

ある時は右へ、また左へ。

崇めたり、けなしたり、無視したり。

 

そんなことで、自分自身の“着地点”は、定まるのでしょうか?

また、これを読んで、初めて「南無」という言葉の意味を知った方が・・・

そういったことを考える、良い“きっかけ”となれば、と思います。

 

先日(11月23日)は、匝瑳市「常福寺」さまにて・・・

御会式(おえしき)”に、出仕させていただきました。

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これをもって、今年の“御会式”出仕も、一段落(^^;)

 

・・・終了後、珍しいものを拝見させていただきました。

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この“曼荼羅(まんだら)”、「南無」の文字が・・・

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・・・何だと思います?

 

実はこれ、“カタツムリ”を模しているんだそうです。

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(カタツムリのように)ゆっくりと、地道に“修行”すれば・・・

確かな“功徳”を積むことができる、という意味なんだそうな。